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淡谷のり子の学歴•結婚•動画などプロフィールを調査!

      2016/05/27

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■淡谷のり子さんがシンボルかかしに!! 青森の国道でにらみ!!

青森市名誉市民の淡谷のり子さんが大きなシンボルかかしになったことが大きなニュースになっていますね。

青森県の津軽半島を南北に走る国道280号沿いで、地域住民が手作りしたかかしを並べるイベント「かかしロード」が開かれている。30日まで。

 

今年で9回目。青森市から今別町まで約40キロに過去最多の207体が立ち並ぶ。今年は世相にちなんで芥川賞を受賞したお笑い芸人の又吉直樹さんや、映画「スター・ウォーズ」のかかしも登場した。

 

目玉の高さ約6メートルの「シンボルかかし」は、青森市出身の名誉市民で、歌手の故淡谷のり子さんがモデル。ねぶた師が手掛けた本格派で、稲穂の前でにらみを利かし、実行委は「この迫力に害鳥も恐れ入るはず」。

毎日新聞より

毎日新聞でこのニュースを知り、淡谷のり子さんについて興味を持ったので、経歴などいろいろ調べてみました。

■淡谷のり子の経歴

青森市名誉市民の淡谷のり子さんとは一体どんな方なんでしょうか?

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淡谷のり子さんは1907年8月12日生まれで1999年9月22日亡くなっています。
満92歳没。

出身地は青森県青森市で、青森の豪商「大五阿波屋」の長女として生まれますが、1910年の青森市大火によって生家が没落します。

10代の頃に実家が破産し、1923年、青森県立青森高等女学校を中退し母と妹と共に上京します。

東洋音楽学校(後・東洋音楽大学、現・東京音楽大学)ピアノ科に入学します。

後に荻野綾子に声楽の資質を見出されて声楽科に編入し、オペラ歌手を目指すためクラシックの基礎を学びました。

経済的な事情で1年間休学しますが、復学しリリー・レーマンの弟子である柴田稲子の指導を受け首席で卒業します。

春に開催されたオール日本新人演奏会では母校を代表して「魔弾の射手」の「アガーテのアリア」を歌い十年に一人のソプラノと絶賛されます。

1930年6月、浅草の電気館のステージに立ち、映画館の専属となりアトラクションなどで歌うようになりますが、当時、母校の声楽家が歌う流行歌よりも低い価値で見られており、淡谷さんの歌が堕落とみなされ、母校の卒業名簿から抹消されます。

1931年コロムビアへ移籍し、「私此頃憂鬱よ」がヒットし、スターダムの道を進んでいきます。
淡谷さんはコロムビアでは映画主題歌を中心に外国のポピュラーソングを吹込むようになります。
そして1935年の「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手の第1号となります。

さらに、わずか1年の結婚生活という苦い経験を味わった後、1937年「別れのブルース」を発表し、これが戦地で愛唱されたことから一躍、人気歌手となりました。

戦後は淡谷さんはテイチク、ビクター、東芝EMIで活躍します。

やがて、ファルセット唱法になり、声楽の基礎がしっかりしているので、胸声一本ではなくハイトーンを失わないところに歌唱技術の深さがありました。

1953年に『第4回NHK紅白歌合戦』に出場、紅白初出場を果たし、同紅白で初出場ながらいきなり紅組トリを務めます。

また、紅白で第1回を除いて初出場でトリを務めたのは淡谷さんのみということです。

以下は、1948年の「君忘れじのブルース」という曲です。


素晴らしい歌声ですね〜

これらの経歴から、青森市名誉市民の淡谷さんのかかしが反響を呼んでいる理由がわかりました。

かかしは30日までだそうですが、来年以降も定例イベントにしてほしいなと思いました。

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